ドラゴン ボールとドラゴン ボールZ羅針盤


鳥山明、幼き頃は?

 

映画ドラゴンボール実写版の作者である、鳥山明は、幼い頃から、絵を描くことが大好きでした。

 

子供の頃に通っていた、絵画の教室で、『101匹わんちゃん大行進』の絵を描いて表彰され,その出来事によって、絵を描く事に自信を持ったと、本人は語っています。

 

 

そして、小学校の写生コンクールでは、何度か賞を貰っていますし、高校時代も、美化キャンペーンのポスターで、なんと全国高校生の部で入賞もしているのです。

 

 

鳥山明の担当編集者である、鳥嶋和彦は、彼の家は貧しかったみたいだが、両親共に、マイペースでのんびり屋な性格で、夕食を食べるお金がないからと言って、二人で代わりにワルツを踊るような人であったと語っています。

 

 

また、子供時代の鳥山明は、唯一の楽しみであったのが、お腹を空かせながら漫画を描く事だったとはなしています。

 

幼少時代では、アニメや漫画に熱中していた鳥山明ですが、小学校高学年以降は、テレビドラマや映画の方に興味が移り、マンガを読む機会がほとんど無くなってしまいましたが、それでも絵を描く事は好きで、自信もあったため、進路は、愛知県立起工業高等学校デザイン科へ進みます。

 

 

そして、1974年に卒業した後、デザイン会社に就職します。
デザイン会社では、チラシなどを作っていたのですが、サラリーマン生活に結局嫌気が差してしまい、2年半ほどで退職しました。

 

 

退職後は、自由気ままな生活を送っていましたから、金銭的にはとても困っていました。
その時に、たまたま手に取って見てみた、『週刊少年マガジン』で、新人賞の応募作品を募集している記事を見つけて、その賞を取れば、賞金として50万円が手に入ることを知り、賞金のために23歳で鳥山明は、初めて本格的に漫画を描き始めたのです。

 

でも、結局『週刊少年マガジン』の新人賞の締め切りに間に合わすことができず、毎週作品を募集していた『週刊少年ジャンプ』の方へ作品を投稿することになりました。

 

 

その頃の作品は、『スター・ウォーズ』のパロディなどを描いたそうです。
鳥山明の当時の作品は、新人賞レベルにはとおく及ばないものであったとのこと。

 

 

担当編集者の鳥嶋和彦は、鳥山明の作品の中に、色々な角度から色々なものを描くことができて、絵が非常に丁寧に描き込まれている事にセンスを感じました。

 

「今は下手だが頑張れば何とかなるかも」とアドバイスをし続けたそうです。
そして厳しくボツを出す鳥嶋の元で、鳥山明は、懸命に修行することになりました。

 

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この時のボツ原稿の総量は、なんと、1年間に500ページにも及んだと言っています。
このような、下積みがあったからこそ、鳥山明の作品、ドラゴンボールは、世界中の人から愛されるのでしょう。


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